昨日の朝刊の一面は、25日の造船所の死亡事故だった。3人の方が亡くなられた。今日は、昨日交通事故で亡くなられた方のお葬式にお参りした。
遺族の方々にとってこれほど悲しいことはないだろう。
当たり前のようだが、命あるものは常に、ある日突然死ななければならない可能性の中にある。
恐らくは、この亡くなった方々も、前日まではピンピンしてて、新聞の悲しい事故や事件をみては『気の毒だなぁ。大変だなぁ』とため息をついておられたに違いない。今の僕のように。
昔、私の知る某所で二十歳の女の子の車と大型トラックが正面衝突して、女の子が死亡したことがあった。某所の近所の方に私は「お気の毒な事故でしたね。」と語りかけた。すると、その方は意外なことをおっしゃったのでびっくりした。
「いやー、よかったよかった。運転の荒いあの子ならいつかやらかすと近所のうわさだったんです。みんな困ってたんですよ。それに心配でした。誰か被害に遭わなければいいがと。相手がトラックでよかった」。
こんな話も聞こえてきた。地域社会に対して協調性がなく、すぐ苦情を言う方が亡くなったことについて、「これで一ついらん口が減った。やれやれ、、」。
何か虚しい、、、悲しいはずの死が、別の角度ではよろこばれてるとは。。
僕の死は、まわりにとってどんなだろう?
25日は、某組の布教大会に出講させていただいた。僕の話の肝要なところは、「人生、どんな生き方をしても、死に方をしようとも決して虚しくない」ということだ。ご開山のご和讃の「本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし」(浄土真宗聖典註釈版第二版P580)のおこころを戴いてのことだ。
もし、僕の中に人の死を喜ぶようなこころがあるのなら、それは「煩悩の濁水」なのだ。ちっぽけなこころなのだ。阿弥陀様の大海原に飲み込まれれば、それはもはや障りではない。
阿弥陀様はいつでも僕に「虚しい人生なんか一つもないよ」とささやいて下さる。「なもあみだぶつ」の僕の声となって。