今朝は廃品回収であった。
昨日夕方の積み込みの時も感じたのだが、古新聞の量が圧倒的に多い""
新聞は毎日配達されるものだから当然で、量の多さ、、納得させられる。
僕は某大手社の新聞をとるのをやめたことがある。
理由は2つだった。
1つは、地域の話題の豊富なものに変えたかったこと。
もう一つは、某社の記事の書き方が気に入らなかったからである。
なにが気に入らなかったかというと、地域の話題について述べてあったのであるが、その扱い方に疑問があったからである。
二者の対立について述べてあったが、実名入りでありながら記者の個人的な見解というより、意図が強すぎて、また当事者のことを考えない非常に無責任な書き方だったからだ。
さて、古新聞の量が多いということは、ある種ホッとさせられる面もある。
今の若い世代は、新聞をとらない人たちが多いと聞く。
考えてみると、かく言うぼくも実はあまり新聞を見なくなっていることに気づいた。(テレビ欄などほとんど見ない。) ニュースなどの情報は大体テレビかネットで知ることが多い。
若い人たちが新聞を購読しないのもわかるような気がする。不必要と感じているからだ。固定電話も契約していない人も多い。携帯があれば事足りるからだ。
これからは家の建て方なども変わってくるように思える。普段めったに使わない「座敷」をつくらない人たちも多くなってくるように思える。座敷や仏間というのを昔の人は大切にしてきたように思うが、これからはその意味が段々と失われていくように思える。一見無意味と思えるところに本当は大切な意味があるのであるが、、。目先の「必要か否か」だけで物事をみると、功利主義になる。
功利主義のエピソードとして、最近思い当たるのが、学校で給食の時「いただきます」と合掌することに親が学校に苦情を言ったということである。なんでも、「お金を払ってるので手を合わせる必要がないのでやめてほしい」ということだそうだ。
目先において、必要かどうか?また、損か得か?しか考えられないというところに、本当の感謝の念は芽生えてこない。 このことを教えてくれているのが、季節外れだが、、、お盆の餓鬼道のお話である。
・・・あぁぁ、僕も人のこと偉そうに言いどころではないなぁ^^; 反省反省(ザンギせよ)m__m